小さな犬の憂鬱

 

 

 

 

 

  もうこのあたりでは一月以上も気まぐれに降ってはやんでいた雪が、またちらちらと目の端をかすめはじめました。

 星もない夜空の代わりに装うのか、目下の街の灯は、夕暮れを迎えて飽くことなく煌いています。

 今年は随分仕事を引き受けてしまったと、彼は寒気の中に満足半分のため息を吐きました。目下の街の一角で、人の目に見えぬ流星のような光が集まってきているのを感じながら、あと少しで一年ぶりに再会できる友人たちの顔を数えています。

 あと六時間もすれば目の廻るような忙しさなのですから、せめてその前にじっくり旧交をあたためたいものです。

「正確には友人たちに息子にそのお嫁さん……」

「誰がお嫁さんだよ」

 ふと声に出してみたのをうっかり聴かれて振り返ると、彼に容貌だけはそっくりの息子、現職魔王が立っていました。

「ルシファード!いつ来たんですか?久しぶりです本当に」

「たった今。本部の方行ったらここだって言われたから来てみたぜ。こんなところで何してんの?」

 こんなところとはバベルの塔、人間が歩く想定もされていない屋上の端で、尤も人間でもない二人には安全性については問題外なのですが。

「本番のシュミレートですよ」

 つ、とその白い指先を下の街並に向けると、ぼうっと家々のうちの一軒に杏色の燐光が瞬きました。それが消えたと思えば別の家に碧い光、薄紅色の光、ベージュ色の光。家々を巡る順番は決めてあるのです。

 しんと静まった夜気の中に、星が集うさやかな音だけが聴こえます。

「今年もあなたが来てくださって嬉しい限りです。何せ今回は私がブロックの仕切り役ですので」

「マリリアードも引退しそうでなかなか出来ないよなあ、俺は別に子供は好きだからいいけどさ」

 その熱意で子供など決して好きでもないサラディンを引っ張ってきたルシファードは、気にもせず楽しそうに笑いました。

「お、そういえばこの間カジャに会ったぜ」

「カジャに?私も先日声だけは聴きましたけれど。ずるいですね、私の可愛いカジャなんですよ。棲み分けの励行なんてことが流行りだしたせいで、私はこんなときくらいしか会えやしない」

 珍しく恨み言を並べるマリリアードに苦笑して、

「まあ、カジャだって会いたがってたぜ。最近ちょっと曰くつきの犬飼ってるって知ってるか?まあ、割といい犬なんだけどさ。マリリアードもきっと気に入ると思う」

 その時、北の方から一きわ白い彗星が長く尾をひいて街に消えました。

「ほら」

「ああ、そうですね。もうすぐ会えます」

 安らいだ顔になったマリリアードをよそに仔犬の悲鳴を聴いたような気になって、魔王は名にも似合わぬ苦笑を浮かべました。

 

 

 

 それから間もなく。

 ついさっき割といい犬などと尊厳を無視した褒め方をされたことも知らず元人間のティーロは、一種妖しげな世界に足を踏み入れようとしていました。

「えーっと、このベルトが…ここか。これでよし、あとは帽子どこやったかな帽子」

 持ち物をひっくり返すご主人様は、白い足を惜しげもなくさらして、用意された普段とは百八十度違う赤い衣装に身を固めています。

 襟元と袖口に白いふわふわのファー。

 果たして純真な子供にプレゼントをあげに行くだけの仕事にミニスカサンタが必要なのか、という疑問はこれまで一度たりとも持ったことがない小さな魔女です。けれどれっきとした人間の男というメンタリティも最近取り戻してきた仔犬は、花の茎のように華奢な素足が目の前をよぎるたびに、猫のようにその辺の壁を掻き毟りたくなっています。

(ご主人様は…ご主人様は今まで何十回無駄にこんな格好してただ子供にプレゼントを…)

 ああなんてもったいない。ていうかどんな変態の集団だ、サンタクロース補助委員会とやらは!?ご主人様はなんか騙されてるんじゃないだろうか。そんな益体もない思考をノックの音が断ち切りました。

「カジャ?」

 カジャは慌てて踵を返し、玄関に駆けつけました。ドアをあければそこに大好きな人がいると知っている足取りで。

「マリリアード!」

「こんばんは、遠いところからご苦労様でした。今年の衣装もよくお似合いですよ。」

「そうか?」

 背後で犬がげほげほと咳き込んでいるのにも気づかず、二人は仲良さげに見つめあっています。

「君の顔をつぶすわけにはいかないな。今年も足手まといにならないよう努力する」

「毎年ありがとうございます、ほんとうに。…あ、そうでした」

 そう言って来訪者は、荷物の中から三角帽子を取り出しました。

「衣装セットに入れるのを係が忘れたんだそうです。これを届けにまいりましたのよ」

 畳まれたそれをきちんと広げ、ふわふわの髪の上にきゅっと乗せて。

「ほら、可愛い」

 小さな魔女は、本当に嬉しそうにぱあっと笑いました。

「私もマリリアードにおみやげがあるんだ。喜んでくれるとありがたいのだが。だって君たちの習慣では、クリスマスには大好きな人に贈り物をするんだろう?」

 ずきっと小さな胸を痛めてしまった仔犬のことなど気づきもしません。身を翻すとはるばる持ってきた荷物をほどき、中から沢山の壜を取り出しました。

「この小さい小瓶は、塗った部位が最初は痒くなってそのうち火のように熱くなって最後には焼け爛れたようになってとける」

 カジャは心底嬉しそうに言いました。

 すねて丸まっていた仔犬は、思わずもう一度咳き込みました。

「この露草色の壜は即効性だ。飲むと呪いが脳を蝕んで二秒で死ぬ。星の樹の描かれた壜は、涙が止まらなくなって脱水症状になるから脅しに最適だ。月夜花の描かれたのが解毒薬。それからチタリー特産の干しきのこは、煎じて飲むと人に嫌われる呪いにかかる。あとこっちが全身にカラフルな斑点ができる毒で、その陶器の壜は半年かけて胃に穴を開ける薬だ。それからそれから」

 喋り続けるカジャの口上を最後まで聴いて、黒髪の美声の持ち主はにっこりと笑いました。

「ありがとうございます。大切に使わせていただきますね」

 仔犬はその時はじめて、その男の顔を凝視しました。

 

 

 

「ティー?さっきからずっと何を怒ってるんだ」

 怒ってなんかいません。

 ティーはおりこうな仔犬ですから暴れたり無駄吠えをしたりはしないのです。だってそんなことをしたら、ご主人様に嫌われてしまうかもしれません。

 だからご主人様があの長い黒髪のなんだか顔だけは天敵にそっくりな、有り得ない美貌の男とどれだけ仲よさそうにしていようと、ティーはいい子にしています。

 なのにご主人様は、ずうっとティーが怒ってると思ってさっきから色々ずうっと機嫌をとってくるのです。

「マリリアードがきらいなのか?」

 そうおずおずというご主人様の顔は、ほんとうに困り果てていて、かえってティーはかなしくなってしまいました。怒ってなんかいないって言っているのに。ただ、胸の奥がちくちくと痛いだけで。

「先生、もうお時間です!アンドララとヒホン、オポルトお願いします」

 突然ドアが開いて、雪でできた人形がティーには解らない言葉を叫びました。

「了解した」

 すぐに表情を一変させ箒を取り出して、ご主人様は振り向きました。

「ティー、一緒に行かないのか?」

「……。」

 

 

 怒ってはいませんからティーはおとなしく箒に乗りました。最近はバランスが上手にとれるようになったので、バスケットにはつまらずにご主人様の肩や箒の柄にしがみついています。そっちの方がまだ安心できるのです。ご主人様の荒っぽい運転で、バスケットごと宙に放り出されそうになったときの恐怖と言ったら!

 けれどそんな気も知らずに小さな魔女は、ほっとしたように目の前の子犬の背をなでました。

「きれいだろう」

 きぃんと張り詰めたような寒気に支えられた、空高い銀色の月。

「古い連中は銀を嫌うんだ。銀は聖の象徴だ。」

 もちろんそんな連中にはこんなバイトなんかもってのほか、とくすくす笑って、

「私が付き合いのある魔など、サラとあの魔王ぐらいだから関係ない。聖夜の月も、ハロウィーンの黄金と同じように美しい」

 潔白の色。精神の色。神々の骨の色。

 その月を頂点に弧を描いて、小さな魔女の箒は飛び続けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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