そしてクリスマス・イヴまで
長い夜の中で書物のページをめくっていると、しんと静謐さが身に迫ってくるようです。 仔犬が書卓に向かう主人の足元で、ぱたりと尾を振ってまるまりました。退屈なのかと思ってカジャは、もうずいぶん大きくなったティーを抱き上げて、お膝の上に乗せてあげました。 暖炉の中で蛍草が、またひとつはぜて。これはまだ寒さが厳しくなる前に、砂漠の魔女からおみやげに貰ったものなのです。 どこか遠くで、星の樹を揺すぶって鳴らしている音が聴こえます。しゃらん、しゃらんとああやって誰かが、精霊を呼んでいるのです。 その中に一際澄んだ音を聴いて、カジャはふと書物から目をあげました。 「ティー」 丁寧に本を閉じて、呼びかけながら毛並みを撫でてまどろんでいた仔犬を起こし、小さなお勝手に立って。 「雪だ」 熱いココアを持って、二人はそっと屋根裏に上がります。 木戸をあげると硝子の天窓の向こうに、銀色の綿のような雪が舞っていました。 カジャはクッションの上にぺたんと座って、夜の中に耳を澄まします。仔犬はおとなしく、ご主人様にくっついています。天窓から差し込む雪明りが、数日前から用意されていた魔方陣に染みていきます。 サンタクロースからの連絡に待機しているのです。 サンタクロースはクリスマスになれば、第三界全ての子どもたちにプレゼントを配らなければなりません。表向きはそう言うことになっているのですが、もちろんそんなことは無理ですから、今はカジャのようなフリーの魔女たちから上位精霊からあちらこちらに手伝いのアルバイトを要請して、毎年なんとか間に合わせているのでした。 どのみち第四界の彼らにとっては、聖なる夜は暇でたまりません。昔ならば魔女にそんなことを頼むなんてとんでもないと言われたのでしょうけれど、きょうび第三界の子どもたちだって、魔女とサンタクロースの立場の違いなんか大して気にしていないのです。ただし比較的そういうことを気にしそうな家には、一応サンタクロース本人やそれに近い立場のバイト員が行くようでした。 「さっき星の樹が鳴ったはずだがなあ」 カジャは仔犬ごとひざ掛けにくるまって、 「気のせいかな。毎年初雪のころに来るのに」 ご主人様とクリスマスを過ごすのははじめてのティーは、勝手が分からずにくうんと鳴きます。 その時ふいに魔方陣が光に滲み、金色の燐光と共に、美しい声が響きました。 「遅くなって申し訳ありません、カジャ。――私の魔力を通すのに時間がかかってしまって」 低い声です。けれど魔方陣上に、その姿はどこにも見当たりません。 「遠くて声をつたえるのが精一杯のようですね……でも、今年は私があなたの担当になります。イヴにお会いするのが楽しみですわ」 その声に似合わぬ口調に、仔犬は失調感のようなものを感じて床にのびました。けれど、ふとご主人様を見ると、細い指が震えていました。 驚いて起き上がるティーにも気づかず、小さな魔女は動揺を隠しません。 大きな瞳は喜びに潤んでいます。唇が小さく息を呑んで、吐息と共に一つの名前をつむぎました。 「……マリリアード?」 その声の押し殺した甘さに気づいたのは、隣にいた子犬だけでした。
拾われてからずっと仔犬は、毎日二度のおいしいご飯と、自由に飲める水――ただし、家の前を流れている川の水は飲んではいけないと禁じられていました――を貰って、今ひとつ体力のないけれどきれいな可愛いご主人様が必ず毎日お散歩に付き合ってくれて、それでも本当はずっと不安でした。 一月ほど前、彼にとってある一つの転機がありました。それは絶望と希望が同時にやってきたのです。 ――私がそのうち使い魔を持つにしても、それはあの子ではないよ。 そう、ご主人様は言いました。それは言外に、彼がある程度大きくなったら手放すという意味を持っていました。 ご主人様は彼を本物のただの犬だと信じているので、使い魔として養成するわけでもないのなら、魔の気配の中に置き続けるのはよくないと思っているのです。 それを立ち聞きしてしまったティーロは悲しくて悲しくて、もうそこにはいられませんでした。走って客房に戻 ってきゅんきゅん鳴きながら、いつか眠ってしまいました。 ……そうして次に目を覚ましたとき、彼は人の姿をしていました。 それと同時に思い出したのです。自分が元は、人間だったと言うことを。 それから怖い人に脅されたり変な空間に誘い込まれたり自分を犬にした張本人と再会したりして色々大変だったのですが、結局一度もご主人様の前では人間の姿をしていなかったので、ご主人様はいまだにそんなあれこれの一切を知りません。 ただ、あの魔王は、呪いの内容を少しいじってくれました。そして内緒で、少しだけ魔力をくれました。 素直に喜ぶ気になれないのですが、それがティーの今の、数少ない希望です。
けれどクリスマスが近づくにつれて、希望よりも不安が小さな犬の身体の中をいっぱいに占領するようになりはじめていました。 だってあの不思議なサンタクロースからの通知の夜、ご主人様の態度はどうしても変でした。ティーロに対する態度とも、サラディンのような友人に対する態度とも違います。 それについて訊いてみても、あれはサンタクロース本人ではないと言うだけで、それより知りたいことについては何も教えてくれません。どうやらサンタクロースには何人か親密な協力者がいて、そのうちの一人なのだそうですが。 (マリリアード) その時にご主人様の心に走った衝撃を、仔犬はずっと忘れられません。 クリスマスが近づくごとに小さな魔女は、いつも大きな鍋をかきまわしたり実験室にこもったりと準備に余念がないのでした。 ティーはそんなご主人様がどんどんきれいになる気がして、無駄吠えを我慢したり無闇に雪の中を駆け回ってみたりしています。 それでも月は無情に色を移して、ある夜女王銀貨のように染まりました。
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