小さな犬の受難の話

 

 

 拾われてからずっと仔犬は、毎日二度のおいしいご飯と、いつでも自由に飲める水――ただし、家の前を流れている川の水は飲んではいけないと禁じられていました――を貰って、今ひとつ体力のないけれどきれいな可愛いご主人様が必ず毎日お散歩に付き合ってくれて、それは大変幸せでした。

 ちゃんと名前だってつけてもらったのです。

「ティー、おさんぽに行こうな。今日は川の東に行こうか」

 月の色も変わりきのこも枯れ果てて、するすると地にもぐってしまった初冬のある日、ご主人様がこう言いました。

 川の東、と言われて彼は怪訝に思いました。今までは苔の山の周りをめぐったり、川沿いに泉まで行っておやつを食べたりで、川の流れる方に下っていったことは一度もなかったからです。第一、今日のお散歩はもう終わったはずでした。

 けれどご主人様は飼い犬の不審なそぶりに構わず、ぱたぱたとバスケットを持ってきて、

「はい」

 ぽんぽん、と入れと言うように中をたたきました。ティーは不安になりました。いつもは、お散歩のときはリードを使っているのに。バスケットに入ったら、もしかしてそのまま捨てられてしまうのではないでしょうか。

 でも、ここでだだをこねて嫌われてしまうのはもっといやでした。

 まだ仔犬のティーは、そんなに大きくないバスケットにすっぽりと入ってしまいます。

 彼の小さなご主人様は犬の入ったバスケットを持って外に出ると、黒いローブのどこからか箒を取り出してその先端にバスケットを結わえました。

「ちょっと怖いかもしれないけど、我慢するんだぞ」

――え?

「もう二十年くらい箒には乗ってないからなあ…まあなんとかなるだろう」

――は?

「ティー、ちょっとバスケットの脇に傷薬と蘇生薬つめてもいいか?」

 …この瞬間、彼は少しだけ、このまま僕を捨てていってくださいと思いました。

 

 

 

 拾われてからずっと仔犬は、毎日二度のおいしいご飯と、自由に飲める水――ただし、家の前を流れている川の水は飲んではいけないと禁じられていました――を貰って、今ひとつ体力のないけれどきれいな可愛いご主人様が必ず毎日お散歩に付き合ってくれて、それは大変幸せでした。

 けれど彼は、知っていました。ご主人様は本当は、もっと役に立つ使い魔が欲しいのです。

 そんなことは優しいご主人様はおくびにも出さないけれど、彼はご主人様が大好きでしたから、少しの心の動きも見逃しませんでした。

いつかご主人様が強い使い魔を手に入れたら、ただの仔犬はお払い箱になってしまうかもしれません。ティーはそれがずっと心配で、時々夜中にきゅんきゅん泣いたりしてしまいました。そのたびにご主人様は起きてきて、必ず抱き上げて一緒に眠ってくれるのです。

 

 月は夜ごとに痩せて、クリスマスに向けて銀色に近づきます。この時期、魔法使いの中でも月光師と言われる人々は大忙しです。毎晩角度と光度を正確に測定して、真っ白な貝を砕いた砂をさらして月光を吸収させる作業が続きます。

 ティーのご主人様はそんな面倒な作業は真っ平ごめんでしたから、いつも月光は彼らから、星茸やカナン紙と引き換えて手に入れるのが常でした。おかげで彼は、この時期が一番暇なのです。

「やはり一年で一番のお祭りと、一年で一番の稼ぎ時の合間には、休暇を持ってくるのが人間らしい生活というものだろう?」

 これも取引で手に入れた金色のバターをビスケットに乗せてティーに差し出しながら、彼は人間でもないのにきらきらと言いました。ティーはさっきの恐怖が尾を引いて、未だ食べる気になりません。

「どうしたんだ?」

 自分のビスケットを口に運びながら、ご主人様は怪訝そうにしました。

 どうしたもこうしたも、ティーの浅い犬生の中でも、箒に乗った魔女が空の鳥と本気でけんかをするなんて聞いたことがありません。箒の操縦はガタガタで、いつ落ちるか無力な仔犬はバスケットの中で震えていたのです。

 ただでさえ二十年ぶりだと言うのに。

 けれど疲れたんだな、と一人で納得してご主人様は仔犬の頭を撫でてくれました。まだ小さいのになあ、でもお前のためなんだ。

「――明日まる一日飛べば着くからな」

 けれどその一言で、ティーは、これがまだ終わっていないのだと思い出してしまいました。

 ご主人様の箒が着地したのは、今まで見たこともない野原でした。
野外での夕飯を済ませ、綿のようなふわふわとした葉が茂る大きな星の木の蔭に、一人と一匹は寝床をつくっています。持ってきた家の裏の白い苔をご主人様がまあるく地面に撒いて、ふうっと息を吹きかけると、こじんまりとして居心地の良さそうなまるいテントが出来ました。

 野原一面の草の実が、風に吹かれてころんころんと歌います。

 野原も、星の木もテントも魔女も犬も、その夜の月光にどっぷりと浸っておぼろに輝いています…。

 

 

 

 

 

 

 

 

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