春の戸惑い
「彼」は眠っていた。 世界の奥深く、最も闇に近い場所。 この世界は層になっている、と人間は言う。けれど、その層は完全に分断されたものではなく、横の概念も縦の概念もない。 便宜的に、一から六までの番号を振ったのは教会の神学者たちだ。けれど見ようによっては幾つにも分離して見えるし、あちこちに抜け道もあるし、――「彼」のようにどんな場所にも最低限の犠牲でたどり着く式を持っている存在には、その分断自体意味がない。 けれど確かにここには、彼の眠りを妨げるものが少ない。それだけの理由で彼は、学者の言う「第六界」がお気に入りだった。 別に好きで魔王と呼ばれるようになったわけではない。どちらかというと、仰々しいことは嫌いだ。けれど仕方が無かったのだ。 魔王の称号。 それは彼の有り余りまくる力を、無理なく世界に還すための律。
その長身が六人は寝転べそうな円の中に、魔女は言葉を紡いでいる。 艶のある黒いローブは、ゆるやかに動く蝶の羽のように人を惑わせる。青緑色の、独特のひやりとした質感を持つ長い髪。 「サリタリーシュの月光、黒桔梗の雌しべ、白百合の雄しべに紅薔薇の骨」 言葉と共に一つ文様の加わる魔方陣は、既に高い密度の燐光を発し始めて、その艶麗と言うべき面差しを彩っていた。ダイアモンドダストよりもまだ冷たい。熱をかけらも持たないかのような皚だ。 魔女は長い睫毛を伏せ、つとめてその唇だけを動かす。 こんな大掛かりな召喚を行ったのは、どれだけ昔のことだったろうと彼は頭の片隅でちらりと思った。あの時はまだ、あの星は東になかった。今この陣の座標になっている、銀灰色の靭い星。 「聖マリオネットの舌、その麗しき、虚」 ふと、僅かな抵抗を感じて眉をひそめる。それでも無駄な身じろぎ一つするわけにはいかなかった。 美しい夜だ。 金色に淡く光る花々。力の季節を最初に知らせる恵みの花だ。月は中天、恋をする女の爪のように紅い。ほんとうは魔の季節、十月の金の夜に行いたかったのだが。 上々だ、とサラディンは呟く。 ぱたぱたと音を立てて、かかげた指先から滴ったのは自らの血。 「これは全き世より眠れる闇を満たせる美酒」 ふいに空気が動いた。花々がにわかな風にざわめき、乱れ散り、そして見る間にふくらんだつぼみがほどかれて次々に花開く。 白い顔を、手ごたえと緊張が引き締めている。燭台の焔がふいに震え、魔女を飲み込むほどに高く揺らいだ。その翼が四、五、六枚……焚き染めた乳香が一瞬強く薫る。彼は闇を視たように、何度もまばたいた。 「……えっと」 現れた漆黒は、似合わぬとぼけた声を出した。 「俺を呼んだの、あんた?」 その言葉に自分が何と答えたのか――サラディンはもうよく覚えていない。 一つだけ確かなことがある。 それから何十年、何百年もの間、花々は咲き続けた。その夜この地に降りたった奇蹟を、ひそやかに語り伝えるように。
「――なるほどな」 あまりピンときていない顔をしながらも、小さな魔女はとりあえず頷いています。 「なあ、何がなるほどなんだよ」 もう四時間もしきりに話し込んでいた魔女二人の会話が一段落ついたのを見て取って、手持ち無沙汰に焼いたあざみパイとホイップクリームを運んできながら、 「あれ、なんか見覚えあるな、その魔方陣?」 家事に向かない主人と何百年も付き合ったおかげですっかり家庭的になった魔王が問いかけました。 半ばばらけて幾重にもひろがった古い紙の束。 黒桔梗に白百合、紅薔薇の骨。聖マリオネットの星の配列図は、何百年も昔のたった一夜のものです。 「……もしかして」 「ええ」 トントンと書類の底を整えて東の魔女は、 「あなたを私がうっかり呼び出してしまったときの魔方陣ですよ」 微笑して、若草色の小さな茶器を口元に運びました。まだほろ苦い、雪解け水にひ弱な根を張る洗礼草は、生のまま熱い湯を注ぐと瑞々しく薫りたつのです。この砂漠では望むべくもない、小さな魔女の手土産でした。 「カジャがとうとう、使い魔を持つそうですので。参考までに」 「……えっ」 カジャは、なんとなく気まずそうな顔をしています。 「とうとう決めたのか?あの仔犬――そういえば今日はいないな――あれを、使い魔にするって」
あのクリスマスから三ヶ月あまりがたちました。 小さな魔女の住む地方にもどっさりと積もった雪が、その水際からほんの少しずつとけはじめたある日、カジャはたった一人で箒を手にとって仔犬に言い聞かせています。 「いい子でお留守番してるんだぞ」 大分大きくなった仔犬は、けれど不安げにきゅうんと鳴きました。 聖夜に人の姿を現したティーは、実はあれきり元の仔犬に戻ってしまって、一度も人間にはなりません。確かに人語を喋るのを聞いたはずだったのに、カジャが様々に検査をしてみても、魔の気配の欠片もないのです。 飼い主の言うことはみんな理解しているかしこい仔犬なので、 「お前、あの日人に――なってなかったか?」 そう問うてみても、困ったようにくうと鳴くばかりです。 もしかしてあれは、自分の夢だったのではないかとさえ思えてきて、小さな魔女は悩みました。そんなはずはないのです。360度の方向からくるくる廻って確認したし、人間のかたちのティーを、彼の友人たちだって見ています。けれどそれとは無関係に、仔犬はずうっと仔犬のままなのでした。 本来なら、それはそれでも構いません。カジャは細かいことを気にしないのです。けれどクリスマスの翌日、帰りがけに。 「よい犬を持ちましたね」 マリリアードがこう言いました。 「よかったら彼のことは、使い魔になさい。ただの飼い犬で済ませるのはもったいない」 その言葉に、小さな魔女は有頂天になりました。だって大好きな人が、大好きな自分の仔犬を褒めてくれたのです。それにただの仔犬を魔の気配の只中に置いていれば、どんな悪影響を受けるかわかりません。ティーが使い魔になれば、ずっと一緒にいられるのですから。 けれどこのまま彼が人型になれなければ、カジャは無理をして使い魔にしたくはないのでした。 「……それで、君たちに相談に来たんだ」 サラディンは、珍しく少し困って、青みの濃い翡翠細工のような睫毛をぱしぱしと瞬きました。 旧友があの仔犬をずいぶん可愛がっているのは去年のうちから知っていても、こんなに悩み始めるとは思っていませんでした。 ――あのモト変態男がねえ。 自分たちがお仕置きをした人間が、あそこまで忠犬に変貌するのも予想外でしたが。ルシファードが去年の十月に、かけた呪いを少しいじったことは聞いていました。 彼が一月に一度、ご主人様の危機に際した場合のみ、一晩だけ人間に戻れるように。 そして、もう一つ――人間の姿のままご主人様と愛し合って結ばれることができれば、彼は人と犬の姿を自在に操ることが出来るようになるのです。そんなアヤシゲな話には、本当はしたくなかったのですが。 サラディンは小さな魔女をかえりみました。 カジャは困りきった様子で、若草色の茶器を無意識に手の中で廻しています。 けれどどれだけ小さな魔女が仔犬のことを心配していても、こんなことは言えるはずがありませんでした。
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