来訪者再び
真紅の森を通り白珠石の谷を越え、九季星が吹き晒されるウィゴールの風をまともにうけながら、最後にようよう名もない紺瑠璃色の小さな川を越えた時、大抵の依頼人は疲れきっています。 この家の戸口に立つ来客の内で疲労を顔に滲ませていないものは、家の主人の直接の友人たち――中でも様々な知られざる道によって翼を得たものと決まっているのです。 けれどこの朝に魔女の家の戸口に立った男は、知らぬ顔なのにやけにきらきらしてにこやかに笑っています。仔犬は籠の中から観察しました。金髪のやさおとこです。ご主人さまはなんだかずっと不機嫌そうで、たとえ半年振りにやってきた依頼人に虹のかけらを手に入れたいと相談された時だって、あんなには渋面をつくっていなかったと思います。あの依頼人は神殺しといわれる虹の緋色に眼を灼かれて、結局自らの身を滅ぼしたのでした。虹のかけらを欲しがるようなものは、それを本気で考えるようなものは結局は分不相応なものに魅入られているのだと、ご主人さまは仔犬を教え諭したことがあります。 それではこの客はどうなのでしょう。この男も、何かひどい夢に魅入られているのでしょうか。 仔犬は気づかれぬよう、こっそり観察を続けました。ご主人さまと何か会話しているその声まではここまで届きません。けれどあいつなんかいや、と思ったのは、ご主人さまの態度のせいばかりではありません。大体あの外套の銀の縫い取りは、司祭の徽章に見えました。第四界に教会が何の用事なのでしょう。異端審問なんかたしか自分が前世で人間だったころには既に廃れていたし、そもそもあれは多少なりとも教会の権力が及ぶ領域でしかお話しにならないはずでした。それでもあいつがご主人さまをいじめるようなことがあったら、忠実な仔犬は牙を剥く覚悟があります。
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「……奥から剣呑な気配がするんだけど、気のせいかな」 「気のせいだ」 小さい魔女は疑問を一言で切って捨てました。それでもにこやかな、或いはにやにやとした笑みで続けようとする相手に、 「君が使い魔を持ってるとは知らな」 「マリリアードが!」 相手も自分もその名前を出されると思わずひるむであろう名を強い口調で言うことでねじ伏せると、 「マリリアードが言うことだから私としても仕方あるまいと思っていたんだ。彼が頼み事など滅多にしないからな。しかし」 小さい身体で少なく見積もっても林檎みっつ分は高くにある頭を半眼で見下げると言う離れ業をやらかしながら小さい魔女は言いました。 「まさか本当に聖職者が休みを取って第四界に研修とはな。どんなホームステイだ一体」 「今は休職中ですから聖職者ではありません。ただのニコラルーンです。強いていうなら一般市民ですし蜂蜜だってパンに塗ります」 「歩行者の癖に息切れ一つせずに我家の戸口に立つような非常識な自称人間がそれ以上口を利くな」
室内に入ってきたご主人さまは、大きなため息をつきました。ティーは耳をぴんと立てて様子を見守っています。後から客も入ってきました。 さっきご主人さまは、「マリリアード」という名前を出していたようでした。ティーも知っている名前です。ご主人さまがいちばん好きな人の名前なのです。 うっかり普段は忘れているそのことを思ってしまったティーは、こんなときなのについぐすぐすと黒い鼻が湿ってきました。 金髪の男が何かぐだぐだと言っています。 「だってさあ、王子がも少し見聞を広めろっていうから。なんでも私はまだ頭が固いんだって、別にそう直接言われたわけじゃないけど。間違ったことを言われたとは思わないけど、性根が曲がったのは私だけのせいじゃないと思うんだけどさあ。でも何が悲しくて君だって教会の人間なんかと一月も同居しなきゃいけないんだろうね」
――同居!?
その瞬間仔犬は、ご主人さまの夜なべの賜物である魔方陣つき籠をひっくり返して、猛然と抗議に躍り出ていました。
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