水色の月の季節

 

 

 

 

 

 一族の人々がかつてなく沈鬱な表情で、何を言うにも小声を貫き、川のせせらぎのように決して絶えたことのないはずの礼拝堂の楽の音がぷっつりと絶えていたころのことを、ニコラルーンは覚えている。

 その日彼は潅木の茂みの中に膝をついて、いつものように迎えを待っていた。

 葉も枝もそのつるりとした幹さえ、半ば白みをおびている奇妙な色彩の木々は、礼拝堂をぐるりと囲んでいる。礼拝堂の小さいながらも瀟洒な建築を、彼はここにいながらありありと瞼に浮かばせることが出来る。

 あの水晶扉の中の螺鈿のハープが、再び奏者の指に委ねられるのはいつだろう?

 ふと、小さな肩に手が置かれた。

 香木の茂みが消えうせて、彼は水色の貝殻を敷き詰めたような庭に立っていた。

 ニコラルーンは金髪を跳ねさせて振り向く。こんなことをできる存在を、彼はまだたった一人しか知らないし、第一いつもの見慣れた庭院の景色だった。ただし今のここには、乳白色の優雅な曲線のテーブルセットも、白藍に金のラインが入った茶器一式もないけれど。

「マリリアード!お久しぶりです」

「こんにちは」

 長い黒髪の男が、いとし子を見るまなざしで優雅に立っていた。

「あなたはまだ、私のことが見えるのですね」

「はい、あたりまえです」

 どうしてそんなことを訊くのかと、十歳のニコラルーンはいぶかしんだ。 

 

 彼の知らぬ言葉を話す人々がやってきて礼拝堂の音楽が止んで、大人たちはそれからずっと話し合いをしている。礼拝堂は今見知らぬ人々が出入りしているから、日々の祈りも家々の扉の内でするしかない。聡い子供と言われる彼も、どうしようもなく不安だった。だから今日この人に会えたのは、本当に嬉しかったのだ。

「最近ずっと、呼んでも会えなかったから。王子も色々……忙しかったのでしょう?」

 言いよどむと、水色の道の向こうで、マリリアードが微笑んだように見えた。

「そうですよ。あなたたちが、靭く生きられるように」

 一族の祭壇に跪く人は、遍くこの美しい人に跪いているのだと彼はすでに知っていた。この世界は幾重ものの層になっているのだから、見える場所だけが全てでは決してないことを知っていた。この人はもっと上位の、本当なら不可触の世界の存在なのだと。

――解っていたはずだったのに。

 彼はそれでも耳を疑った。一族の守り神は、その長い裾をひるがえして静かに言った。

「――だから、お別れを言いにきましたの」

 

 

***

 

 

 世界の中心から少し北東に行ったところに、真っ白い苔の生している、まあるい山がありました。

 木はなく、土の色も見えず、ただ白い苔ばかりが隙間なく山を覆っている様子は、粉砂糖をかけすぎたババロアのようです。

 水色の月が奇妙に滲んで、麓の小さな家を照らしています。

 水色の明かりがさしている窓の下で、白い髪と白い肌の魔女っこが、何か一生懸命に作業をしていました。この家は、裏山の真っ白い苔がまるで雪明りのようにぼんやりと光るので、夜にもあかるい印象があります。満月であれば尚更でしたから、カジャはちっとも手元が不自由そうではありません。

「……ふう。漸く半分だ」

 未だ使い魔未満の仔犬はご主人様の手元を覗き込んで、不思議そうにくうんと鳴きました。蔓草で編まれたなんの変哲もない籠がそこにありました。ご主人様はその内側に、せっせと魔方陣を施しているのです。

「月夜を選んでありったけ魔方陣をつくらなくてはならないからな。特にこれは急務だ」

 苔の胞子がとけたインクで書けば、その文字自体がひかります。これもカジャの重要な秘薬でした。その晩月が西の森にかかるころ、丁度魔方陣は完成しました。カジャは安堵のため息をつくと傍らでうとうとしていた仔犬を無造作に抱きあげ、抗議の声を聞く暇もなく籠の中につめました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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